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大阪地方裁判所 平成6年(ワ)5409号 判決

原告

桃原一雄

外三六名

右原告ら訴訟代理人弁護士

太田隆徳

太田真美

被告

株式会社春日苑

右代表者代表取締役

藏田啓造

右訴訟代理人弁護士

藤本清

主文

一  被告は、原告らに対し、別表一に記載する各金員及び右各金員に対する平成五年三月二六日から右各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告ら(坂本正男、久髙良子及び久髙幸一を除く。)、日本テクニカル・サービス株式会社及び久髙幸英(以下、これらを一括して「本件各賃借人」という。)は、被告との間で、別表二記載の各時期に、「春日苑」という共同住宅(以下「本件共同住宅」という。)の各室を、期間、賃料につき別表二記載の内容でそれぞれ借り受ける旨約した(以下「本件各賃貸借契約」という。)。

2  被告は、本件各賃借人に対し、本件各賃貸借契約に基づいて、本件共同住宅の各室を引き渡した。

3  本件各賃借人は、被告との間で、本件各賃貸借契約締結に際し、敷金授受の合意をし、これに基づいて、被告に対し、敷金として別表二の敷金額欄に記載する各金員(以下「本件各敷金」という。)を交付した。

4  本件共同住宅は、平成六年三月二五日午後六時過ぎ頃、火災により、全焼し、滅失した。

5  本件各賃借人は、被告に対し、右同日までの間の各賃料を全額支払った。

6  日本テクニカル・サービス株式会社は、平成六年六月一日、原告坂本正男に対し、同会社の被告に対する敷金返還請求権を譲渡した。

7(一)  久髙幸英は、平成六年七月五日、死亡した。

(二)  原告久髙良子は久髙幸英の妻であり、原告久髙幸一はその子であるところ、相続により久髙幸英の権利義務を各二分の一の割合により承継した。

8  よって、原告らは、被告に対し、本件各賃貸借契約の終了に伴う敷金返還義務の履行として、別表一に記載する各金員及び右各金員に対する遅滞の日の平成六年三月二六日から右各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

請求原因事実はすべて認める。

三  抗弁

1  敷金返還義務免除の特約の存在

被告は、本件各賃借人との間で、本件各賃貸借契約締結に際し、賃借物件が天災、火災、地変等その他の災害により通常の用に供することができなくなったとき、本件各敷金の返還をしない旨約した(以下「本件特約」という。)。

2  敷引規定の存在

被告は、本件各賃借人との間で、本件各賃貸借契約締結に際し、本件各賃貸借契約が終了した場合は、本件各敷金から別表二記載の各金員を差し引く旨約した(以下「本件敷引規定」という。)。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実はいずれも否認する。

本件各賃借人は本件各賃貸借契約書にその意に反して押印せざるを得ず、本件特約に拘束される意思を有しなかったもので、本件特約は契約当事者を拘束するものではない単なる例文にすぎない。仮にそうでないとしても、本件共同住宅の滅失は原因不明の火災によるもので、その滅失につき、本件各賃借人に帰責事由はないところ、本件特約は、賃借人の責に帰すべき事由により賃貸借物件が滅失した場合に債務不履行による損害賠償請求権を担保するため、敷金を返還しないとの趣旨で合意されたものであるので、本件のごとき場合につき、本件特約の適用はない。

また、本件各賃借人は本件敷引規定に係る約定につき真意によって合意していない。仮にそうでないとしても、本件のごとく賃貸借物件が滅失し、部屋の補修をする必要のない場合であっては、本件敷引規定の適用はない。

五  再抗弁

公序良俗違反による無効(抗弁1に対して)

仮に、本件につき、本件特約の適用があるとしても、本件特約は、賃借人の偵務不履行の担保という敷金差し入れの趣旨に反して、全く合理性がないことや、賃借人保護の観点からみて、当然無効と解すべきである。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁事実は争う。

第三  証拠

本件訴訟記録中の書証目録の記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  請求の原因について

請求原因事実はすべて当事者間に争いがない。

二  抗弁1について

ところで、成立に争いのない甲第一〇号証の一ないし一一及び弁論の全趣旨によれば、本件共同住宅は、原因不明の火災により焼失したものであって、原告らの責に帰すべからざる事由により滅失したことを認めることができる。

この点、成立に争いのない甲第二号証、乙第一ないし第三四号証(一部枝番を含む。)によれば、いずれも、原告と本件各賃借人との間の賃貸借契約書中には、賃貸借物件が、天災、火災、地変等その他の災害により通常の用に供することができなくなったときは、敷金の返還はされないものとするとの本件特約に係る記載が存することを認めることができる(なお、弁論の全趣旨によれば、原告吹越勝については賃貸借契約書を紛失していることが認められるが、右各書証及び弁論の全趣旨によれば、これについても同様の内容の記載が存することを推認することができる。)。

これに対し、原告らは、本件各賃借人は本件各賃貸借契約書にその意に反して押印せざるを得ず、本件特約に拘束される意思を有せず、本件特約は契約当事者を拘束するものではない単なる例文にすぎないと主張するので、以下、検討する(なお、本件と同種の事案につき、同様の問題点につき検討を加えたものとして、大阪地方裁判所昭和五二年二月二九日判決(判例時報八八四号八八頁参照)がある。当裁判所の抗弁1に関する以下の判示は、基本的には右裁判例の見解を踏襲するものである。)。

確かに、敷金に関する特約は賃貸借そのものではなく、賃貸借契約に付随してなされるものであり、賃貸借契約の本質的内容をなすものではないこと、また、前掲甲第二号証、乙第一ないし第三四号証によれば、本件各敷金はいずれも月額賃料の五倍から七倍余りのもので、一室当たり金三五万円を超えるものはないことから、敷金不返還の本件特約が本件各賃借人に特に不利益であるとまでいえず、したがって、本件各賃借人は本件特約に拘束される意思を有していたといえなくもないとも考えられる。

しかしながら、(1)、本件特約に係る文言は不動文字として印刷されており、しかも、弁論の全趣旨によれば、いずれの賃貸借契約書も被告がかねて作成印刷したものと認められること、(2)、また、一般的に賃貸人は、賃借人に比し、経済的には優位な力関係にあるのであって、賃借人は賃貸借契約書中に自己に不利な条項が記載されていても賃貸人にこれを訂正するよう要求するのは難しいのが通常であり、本件各賃貸借契約においても右力関係の存在を覆すに足りる証拠はないこと、(3)、さらに敷金は、元来、賃貸借契約が終了した場合に、賃借人の延滞した賃料や賃料相当損害金、その他賃借人が故意又は過失により賃借物を毀損して賃貸人に損害を被らせた場合の損害賠償債務の支払を担保するものであって、それ以外の賃貸人の被った損害を填補するものではないこと、(4)、一方、賃貸借物件が、天災・地変や原因不明の火災等賃借人の責に帰すべからざる事由により、滅失し、そのために賃貸人が損害を被ったとしても、右損害につき賃借人には何ら法律上の賠償義務はないこと、(5)、しかるに、賃借人の責に帰すべからざる事由により、賃借家屋が滅失して賃貸借契約が終了した場合に、賃借人において、賃借人の差し入れた敷金の返還を要しないとすることは、実質的には法律上何らの責任もない賃借人の損失において、賃貸人の被った損害の填補を図るものであるところ、このようなことを認めることは賃借家屋の滅失により家財道具や衣類等の生活必需品を失い、経済的に大きな損害を受けた賃借人にとって著しく苛酷な結果となるし(現に、弁論の全趣旨によれば、原告らは、本件共同住宅が焼失した際、家財道具や衣類等を失ったりして困っていたことを認めることができる。)、(6)、また、一般に賃貸人は賃貸借物件である建物については火災保険により損害を填補することができる(弁論の全趣旨によれば、現に、被告は、本件共同住宅につき、火災保険契約を締結し、本件火災により相当多額の保険金の支払を受けたこと(もっとも、被告は、右保険金支払請求権につき、第三者のため質権を設定していたため、右質権の実行により右第三者が保険金のほとんどを取得した。もとより、右事実があっても、被告は、右保険金相当額につき、自己の財産からの出据を免れたのであるから、被告が損害の補填を受けた事実に変わりがないことが明らかである。)を認めることができる。)のに、賃借人はそのような損害保険に入っていることは稀であることから、賃借人が特段の事由もないのに、本件のような自己に不利な特約を、唯々諾々として承認するようなことは、経験則上一般には考えられないこと等の諸事情からすれば、本件特約の拘束力を認めることは明らかに本件各賃借人の合理的意思に反するといわなければならない。したがって、本件特約の記載は単なる例文というべきであって、本件各賃借人は本件特約に拘束される意思はなかったものと認めるのが相当である。

仮に、本件特約が例文でないとしても、右に認定したように、賃貸借物件の滅失につき、賃借人に帰責事由がなくとも敷金を返還しないとすることは、経済的に劣位にある本件各賃借人の犠牲において経済的に優位にある賃貸人に不当な利益(損害の填補)を与えるものであって、そのようなことは明らかに本件各賃借人の意思に反するから、本件特約の合理的解釈として、本件特約は賃貸借物件の滅失につき賃借人に帰責事由がある場合に限り適用されるというべきである。

仮に右限定解釈ができないとすると、賃貸人は、本件特約により賃貸借物件の滅失につき、賃借人に帰責事由がない場合にあっても敷金を返還することを要しないこととなるところ、前記のとおり本件共同住宅は、原因不明の火災により焼失したものであって、原告らの責に帰すべからざる事由により滅失したと認められるが、この場合につき、原告らは、再抗弁を主張するので、検討するに、借家法及び借地借家法は、造作の買取請求権を放棄する旨の特約を無効とするなど(借家法五条、六条、借地借家法三三条、三七条参照)、借家人の保護を徹底して図ろうとしているのであるから、賃貸借物件の滅失が賃貸人の責に基づく場合や不可抗力による場合にも敷金を返還しないとする部分については、経済的弱者である賃借人の犠牲の下に経済的強者である賃貸人の利益を図ろうとするものであるから、到底私的自治の原則の範囲内にあるものと認めることはできず、本件特約のうち右部分は、借家人保護を目的とした強行法規である借家法及び借地借家法の立法趣旨に反し、ひいては公序良俗に反するものとして当然無効と解すべきである。

したがって、いずれにしても、本件特約が存することを理由にした被告の主張は理由がない。

三  抗弁2について

前掲甲第二号証、乙第一ないし第三四号証によれば、本件各賃貸借契約書中には、本件敷引規定に関する記載が存することが認められる(弁論の全趣旨によれば、原告吹越勝の賃貸借契約書中にも同様の記載があったものと推認することができる。)。

この点、原告らは、本件各賃借人は右約定につき真意によって合意していないと主張する。

しかしながら、(1)、この場合は敷金不返還の特約と異なり、各敷引の金額は不動文字として印刷されておらず手書きで記載されていること、(2)、また、各敷引の金額は各敷金の半分以下であることから右約定の記載の効力を認めても特に賃借人に不利になるとは考えられないこと、(3)、また、賃借人の債務不履行の担保という敷金の性質からすれば、各敷引の金額は延滞賃料等賃借人の債務不履行による損害や家屋の賃貸に伴う損傷に関する修繕費用といった賃貸人に生ずるであろう損害をあらかじめ算定したものと認められるのであり、その算定した金額について賃借人が同意することは経験則上十分にありうること等の諸事情からすれば、右敷引の約定は、本件各賃借人の真意によって合意されたものと認めることができる。したがって、本件敷引規定が本件各賃借人の真意に基づいて合意されたものではないとの原告らの主張は理由がない。

さらに、原告らは、延滞賃料がなく賃貸借物件が滅失してもはや部屋の修繕をする必要のない本件には本件敷引規定の適用がないと主張するので、以下、検討する。

前記認定のとおり賃借人の債務不履行の担保という敷金の性質からすれば、契約当事者間の合理的意思としては、各敷引の金額は延滞賃料等賃借人の債務不履行による損害や家屋の賃貸に伴う損傷に関する修繕費用といった賃貸人に生じたであろう損害等をあらかじめ概括的に算定したものと認めることができ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。そうだとすれば、本件各賃借人に延滞賃料がない点については当事者間に争いがなく、また、他に本件各賃借人に債務不履行があった旨の主張立証はなく、さらに賃貸人において賃貸借物件が滅失して部屋を修繕する必要がない本件には、本件敷引規定の適用はないというべきである。

したがって、原告らの前記主張は理由があり、本件には本件敷引規定の適用はないということができる。

四  結論

よって、原告らの請求はいずれも理由があるのでこれを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官中路義彦)

別表一、二〈省略〉

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